私が所属している関西私塾教育連盟で、連盟全加盟塾を掲載した紹介誌を作ることになった。その巻頭に何か書けということなので、どうせ書くのなら大風呂敷を広げたほうが面白いと思って、最近考えていることをまとめてみた。
以下が、その宣言文である。
『関西私塾教育連盟の塾教育宣言』
今から五十有余年前、まだ塾が社会的な認知を受けていなかった時代に、関西私塾教育連盟を結成した大先輩たちは激論の末、あえて「教育」の語を含む名称を団体名に掲げました。塾はあくまでもまず「教育」機関であるべきだという先人達の気概に共鳴し、その旗印の下に参集したのが私たちです。
では、「教育」とは何でしょうか。
「教育」とは、「終生学び続ける」気迫を持ち、「一生成長し続ける」ことができる人生を子どもたちが歩めるように、その根本を修得させることです。
「学び続ける」ためには、三つの基礎条件が必要です。
まず一つ目は、学ぶ楽しさを知ること。「わかる」喜び、「できる」楽しさを知らしめること。受験テクニックにとどまらない学問の本質、万物がなぜそうであるのか、どうしたら人生の問題を本質的に解決できるのかを、日々の勉強を通して、子どもたちにわかる言葉できちんと提示し続けることが、私たちの使命です。
二つ目は、学ぶために必須の「技術」を身につけること。
塾は、学ぶための「道場」です。柔道でも、剣道でも、書道でも、茶道でも、あらゆる学びは、学ぶ際の所作、方法、型を修得しないと絶対に大成しません。「学び」には「学び」の所作、方法、型があり、それを一生ものとして身につける場所、それが学習塾であるべきです。
三つ目は、誰に頼らなくても自分一人の力で学び続けることができる「自主」、「自律」の人格にまでわが身を鍛えること。
人に教えられて、あるいは人から指示されて学ぶことは、真の学びではありません。自力で道を切り開き、自分だけの力で眼前の関門をこじ開けることのできる人格を作る場所、それが塾です。
私たち関西私塾教育連盟は、真の「教育」を追求し続ける団体であり続けたいと願って集まった、学習塾人の結社です。
塾での教育って何だろう?
私は若い時、何か教育についての理想や夢があって塾を始めたわけではない。大学は出たものの宙ぶらりん、日銭を稼がないと生きていけないから、その身過ぎ世過ぎの手段として身を投じたのが塾であっただけだ。子どもの時に多少成績がよかったから、自分のしてきた勉強法を人に教えたら人も成績が上がって食べていけるだろうくらいの軽い気持ちで、塾という仕事に就いた。
指導法の研修を受けた経験もない、成績を伸ばす技一つ身につけているわけでもない、今から考えると本当にひどい塾講師だった。一度などは数学の問題の説明に詰まってしまって、何人かの塾生から消しゴムの塊を投げつけられたことさえあった。
腰かけ根性を見抜かれていたわけで、どんなに世間を舐めきった人間でもこれでは申しわけないという気になる。そこから私の、「塾に通ってくる子どもたちに何をしてあげたらよいのだろう」を探る苦闘が始まった。それは、「塾教育とは何か」を探求する旅でもあった。
もちろん、「塾は営利企業であって、教育機関を名乗るなどおこがましい」という意見があってもよい。しかし、子どもさんを預かって、まず第一に子どもさんの成長を願う仕事である以上、塾はやはり教育機関であるべきだと、私は思っている。
「わかる」喜び、「できる」楽しさを知らしめる
細々とやっていた塾に段々塾生が集まり始めた初期の頃、募集チラシに「わかる喜び、できる楽しさ」と書いて、保護者に褒められたことがある。アホな私は、これだ、と思って、授業中、面白いことを言っては子どもたちを笑わせて楽しい思いにさせる、遅くまで残したり、テスト前に大量のプリントを印刷したりして成績を上げて喜んでもらう、これが塾の仕事だと、勘違いをした。嬉々として、速さの問題を解くテクニックとしてキハジやミハジを連呼していた時期でもある。
塾の評判は上がった。しかしやがて、これでは学問の本質、勉強の本当のやり方を教えてはいないことに気づく。ハジキを覚えたって、速さについてその正味が理解できたわけではない。そんな小手先の騙しは真の「学ぶ楽しさ」とは無縁のものだとわかってくる。
問題を解く「技術」を習得させる
次に参考にしたのは、スポーツの指導者だ。スポーツの世界では、その強弱はほぼ指導者の力量で決まる。井村コーチが日本を見限り中国へ招聘されると日本のシンクロナイズドスイミングは低迷して中国が一気に強豪にのし上がり、彼女が日本に戻ったら今度は日本がたちまち銅メダルを獲得する。スポーツの優れた指導者は、選手が勝つために身につけておくべき技術を熟知しており、その型、方法を伝えることができるのだ。
勉強の世界でも同様で、例えば数学の関数の問題だと、グラフにきちんと式と座標を書き込んでそれを使って方程式を立てて解く技さえ身につけたら、関数なら誰でもどんな難問でも解けるようになる。こうした指導ができるようになると、塾生の成績も年々じわじわ上昇して、よくできる塾と言われるようになる。
ところがある時気づくのだ。塾生は粒ぞろいにはなる。甲子園の常連校にはなる。しかし、天空を高々と一人駆けるペガサスはこれでは生まれない。発展途上の多くの進学校が進撃を阻まれる壁、有名私大、例えば関・関・同・立には三桁進学するようになっても国立最難関大への進学数は伸びないという高い壁が、立ちはだかってくる。
自立、自律ができて初めて大きく飛躍する
私ごとき塾講師の言うことを素直に聞いて、習ったことはきちんとできるレベルでは、よくて現状維持、それ以上の大きな飛翔は望めない。
教えられなくても自然にふるまえば毎回ほぼ正解に到達する、そして決して矩を踰えることはない、そうした境地にいつのまにか聳え立つ人間が生まれて、初めて教育は完成したといえる。それはもはや師弟関係ではない。同道を歩む朋友同志の間柄に他ならない。
教育を三つに分類する意義は大きい
長い間私は、ただ一つだけの理想の教育法があるはずだ、それを見つけようとして悪戦苦闘してきた。しかし、今は三つの要素を区別して初めて教育は成り立つのではないかと思っている。
人が学ぼうとうするのは、学び成長すること自体に本能的な喜びがあるからだ。勉強が苦手な子、自分はできないと思っている人は、学ぶことの喜びを知らない。まず、学ぶことの楽しさを実感させないと、人を学びの道に導くことはできない。
次に学ぶには学ぶ時々の作法がある。その作法を修得することなしにただ学ぶことは、道具を持たないで木に釘を打とうとするに等しい。不可能だ。成績中位で伸び悩む子には、学ぶにはその各々の過程で地道に修得しないといけない技術が必ずあることを気づかせないといけない。
最後に、私たちの一方的な教え込みで終わったら、本来持っているはずの豊かな才能を押しつぶして狭い牢獄に子どもたちを閉じ込めることになる。賢くなった子は必ず天空高く自分自身の力で羽ばたかせないといけない。
今、目の前にいる子に何をしたらよいかを見極めるのに、教育の内容を三つに分類する意義は大きい。
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