第二部 基調講演と提言発表
「塾と学校の新しい関係」
東京大学大学院教育学研究科 矢野 眞和氏
私は塾というものを経験しておりません。大学に入る前に1年浪人しておりますが、予備校に通うということは考えも及ばず、ただ、1年自宅にいたということでした。そういう世代です。そういう世代の私から見て、その後の塾や予備校の成長は目を見張るものがあります。それはひとえに皆様方の努力によって支えられてきたということは間違いないと思います。
おそらく2兆円産業として成立していると思いますが、何故、成長したのかというのは非常に興味深いテーマです。この業界には50代の世代がかなり参入したのではないかと思いますが、私の後輩でどういう人が塾に参入して行ったかといいますと、間違っていたら訂正していただきたいのですが、だいたい民間企業不適合者です。今の言葉でフリーターに近い人たちが予備校で職を得て禄を食むというケースが多かったはずであります。
しかし、やってみると民間企業で働くよりは人間的で、子どもを育てる楽しさを実感していったと想像します。民間企業不適合者というと失礼に聞こえるかもしれませんが、実は私も自動車会社をやめ、紆余曲折の後に教職の道に入りました。企業、職場によっては不適合が起きることが、むしろ健全な場合もあり、そういった供給構造が一方にありました。
もう一方で、1975年以降に学歴社会は悪い、大学入試は諸悪の根源だという世論の高まりが起こってきます。受験勉強を学校が排除するような改革が進められ、学校外の勉強需要が発生しました。この勉強需要と先ほどの供給構造と相まって、塾の繁栄につながってきたと考えられます。
最近、学力が下がったといって大騒ぎをしていますが、私は腹立たしく思っております。1990年頃まで企業の人事課は「学校の知識は役に立たない」と言っていたのに、その役に立たない学力が少し下がったくらいで騒いでいるからです。企業の人事課に何度もインタビューに行きましたが、その頃「学校の知識、大学の専門知識を企業は当てにしていない。社内で人材育成を行うので、バイタリティのある人を送り込んでくれ」ということを言っておりました。それが、1991年以降、企業は手のひらを返したように大学に即戦力を要請してきたのです。教育に関しては時代の雰囲気に流されず、根本的に深く長い線で考えることをしなくてはならないのです。
塾繁栄の歴史は学校改革の失敗の歴史です。今、世間では民営化はすべて正しく、それに反対する人はすべて間違っているというムードです。しかし、教育は世間のムードに乗るべきものではありません。官にできることは官に任せたほうがいい。それが税金の使い方として最も良い方法であると思います。
教育は時間とお金のかかる営みです。そのお金をどういう風に調達するのかを考えなければなりません。そのため、塾と学校の違いをしっかり理解しておく必要があります。塾は市場で、学校は制度によって成り立っています。基盤が違います。市場には成功者のみが存在し、先生も生徒も失敗した者は基本的にはいないのが塾です。一方、学校は成功者と失敗者が共存します。お金を払ってでも手に入れたいという需要によって成り立っている塾と、学びたくなくても社会的に学ぶ必要があるとしたソシアル・ニーズによって存在する学校との違いです。ただし、ここに一つのパラドックスが存在します。イギリスの経済学者ジョン・スチュアート・ミルが言ったように「学ぶ必要のある者は普通、それを希望しない」というものです。希望する人だけを教えている塾と希望しない人にも教える必要のある学校は、基盤が異なっています。
また、塾では教える側も、学ぶ側も大学に合格するなどという目標が一致しています。これを誘引体系の整合性といいます。学校では教える側と学ぶ側が必ずしも整合性があるとはいえません。インセンティブの不整合が起きるのです。
さらにもう一点の違いは、子どもの教育は親の責任と考える「家族責任主義」の上に塾の繁栄があるのに対し、子どもの教育は社会、おとなの責任だという「社会責任主義」によって成り立っているのが学校です。
さて、私の専門分野である教育投資について話を進めます。日本の教育投資額は政府が少なく、家計が多く負担してきました。日本の労働力の質、経済力を支えたのは政府ではなく家計と企業です。しかし、1991年以降企業投資が、1995年以降家計投資が減りました。日本の家族は疲弊しております。こんな疲弊した家族を作りたくないという考えが未婚化、少子化を招いていると考えられます。この状態で教育を民営化することは家計にさらに過剰な負担をかけることになります。税金と教育費の両方を負担することは非効率ですから、むしろ、学校は改革の失敗を反省し、塾から学び、塾的なものを吸収した方が良いと言うのが私の考えです。その際、学校はこれまで塾が培ってきた教材研究の成果やノウハウを大いに活用しなければならないでしょう。
これまで家計から支出されてきた2〜3兆円は親の教養や芸術文化に支出するのがよろしいのではないでしょうか。官にできることは官に任せ、次世代の教育は、「社会責任主義」によって担い、塾は新しい文化産業の創出に乗り出していくのがよいと私は考えます。
「学力低下と学習塾の果たす役割」
(社)全国学習塾協会常任理事、
英進館(株)代表取締役 筒井 勝美氏
私が小・中学生の学力低下に気付き始めたのは、1994年頃からで、その後、理数教科書や学習指導要領、教育施策の変遷を調べてきました。
これまで学力低下を認めなかった文科省も昨年末に発表されたIEA(国際教育到達度評価学会)、PISA(OECDの生徒の学習到達度調査)の結果を受け、認めざるを得なくなり、中山成彬文部科学大臣が「ゆとり教育」の見直しを明言しました。しかし、省内の役人、教育学者など、見直しには依然強い反発もあり、中山大臣の方針浸透まで紆余曲折が予想されますが、事態を見守り中山大臣の教育方針を支持していきたいと考えています。
学力低下の具体例として、東京理科大の澤田利夫教授の調査結果によりますと、同じ問題における中学生の数学の正答率は、1975年と2000年で平均30%も落ちています。私が英進館の中学3年生の平均点と難関公立高校の合格実績の推移を調べた結果、難関高に合格した生徒層でも1994年〜1996年までの2年間で、300満点で17.4点下がる結果が出ています。
IEAやPISAによる国際比較においても1981年当時の数学力、理科学力は世界第1位でしたが、2003年には、それぞれ5位と6位に下がってしまいました。この20年間に上がったり下がったりしながら次第に順位を落としたのではなく、一気に落ち込んだことから、学力低下に根深いものを感じます。しかも、この学力テストには世界のトップレベルのシンガポール、台湾、中国が参加していない中での順位であることを留意する必要があります。これらの原因は、25年以上に及ぶ「ゆとり教育」と、その風潮を日本の教育行政が、改革という美名のもと何の検証もなく進めてきたことによります。
先ず、授業時間と学習内容の大幅削減が挙げられます。小学4〜6年生の算数の教科書を比較してみますと、昭和43年当時を100とした削減率は、2002年度(図形・文章問題数で)84%です。ほとんど教えていないのです。中学1年〜3年生の数学の教科書では、同じく昭和43年当事に比べ、図形問題が70%、証明問題でも62%も削減されています。
その上、宿題の頻度と量も減っていきていることが、OECD加盟国調査で明らかとなっています。家庭での勉強時間が激減したことは東京都が中学2年生を対象に行った調査で明らかとなっています。なんと「まったく勉強しない」と答えた生徒は92年から98年までのたった6年間で、6割も増え「3時間以上勉強する」と答えた生徒は逆に14.1%から5.4%に減りました。減少した勉強時間はテレビやゲームの時間へと振り替えられたのです。このような現象は自然減とは考えられず、意図や風潮によるものです。子どもたちは本能どおりに子どもらしい反応を見せたと言えるでしょう。子どもたちに知識を叩き込むには嫌がっても強制的にやらせなければならないのです。
同時にペーパーテストの結果や受験勉強を罪悪視してきましたが、テストの点数には「生きる力」に直結した思考力や論述、表現力も反映されます。テストの点数の低下は、意欲や「生きる力」の低下を意味するのであり、ペーパーテストは教育効果の重要な客観的指標なのです。
これまで述べた学力低下の実態を経済人や多くの政治家は知りません。実態を知れば、党派を超えて取り組むことになるだろう問題と考えています。
今後、学習塾が果たす役割はバウチャー制度の導入により、公立学校、私立学校と塾を自由に選べる制度を設け、得意分野で補完しあって教育レベルの向上に努めなければなりません。すでに不登校児童を対象とする塾では、学校卒業資格の認定が行われていますが、主要教科を塾が担当し公立学校は体育や音楽、家庭科などの情操教育や副教科を担当するなど協力関係を構築すべきであると考えます。 |