地域・地元は、
塾の味方か?敵か?
うちの塾の入塾パンフレットには、『地域に育てられてウン十年』、『地元の方のおかげでウン周年』と謳っている。
無事子どもを育てることができたのも、この歳までつつがなく仕事をしてこられたのも、すべて地元の人のおかげ、地域の方の温かい応援があったからだと心から感謝しているが、では、本当に地域の方全員の方に愛されて今があるかというと、それはありえない。
出会うと横道に逃げる人もいないことはないし、こちらが挨拶をしても知らんぷりの人も少数だがおられる。
何の仕事であれ、完全無欠な仕事ぶりの人など一人もいない以上、当然だと言えないこともない。
行き止まり事件
先週の月曜日のことだ。講師の一人が私に、「入り口前の電柱に、変な貼り紙が貼ってあるのをご存知ですか?」
逆方向から出勤した私は気づいていなかったので見に行くと、写真のような掲示だった。
ビニールの丈夫なカバー付きで、上下はきちんと留め金で巻いてある。わが塾の前の通りは自由に往来できる公道で、もちろん、行き止まりなどはない。
「誰の嫌がらせだろう?」ということで、NTTに尋ねてみると、「その電柱に貼り紙等は許可していません。市役所か警察に尋ねてみてください。」とのこと。「警察は大仰だ。なぜ市役所なのかはわからないが、ひとまず、市役所に聞いてみよう」と思って電話すると、道路整備課の課員はあっさりと「あ、それ、うちが貼った。」と。
私は「ええぇ!行き止まりなんかどこにもないし、営業妨害に近いですよ。往来妨害罪にも該当しかねないようなことをなぜ市役所が?」と尋ねると、市役所の職員は、「対向車が通りにくいと電話があったから貼ったんだが、何か問題がありますか?あんたは何がしてほしいんですか?そこまで言うのなら、明日、現地を見に行きます。」
翌日見ると、証拠一つ残さず掲示は剥がしてあったが、市役所からは私に電話一本すらない。しかも、少し先に行ったところに貼ってあったもう一枚の同じ掲示は、まだ残ったまま。
私は地元の区長さんに電話した。この一件をご存知なかった区長さんに、「土地の値段は、その場所の『公開性』に一番左右されます。市役所が『行き止まり』などと認定すると、この通りに面している五十軒ほどの宅地はすべて袋小路に面していることになって評価が下がり、二束三文の土地になってしまいますよ。」と訴えると、区長会に諮って善処するとのこと。
その翌朝、残っていたもう一つの行き止まり表示も、何事もなかったかのように姿を消していた。
ここからは私の推測である。
うちは塾だから、授業開始時と終了時には何台か、車の送り迎えがある。駐車スペースを借りてはいるし、職員が外にでて誘導もしているが、道路に短時間止まっている車も皆無ではない。また、最近近所に住宅建築現場が二か所あって、工事の資材を運ぶ車が頻繁に往来もしている。
おそらく、住宅地の平穏を害されていると立腹した地元の「有力者」が、市役所に怒りの電話でもかけたのであろう。自民党、維新の会、公明党、共産党、その他の議員さんとのつながりを誇示する人もよく見かける。ねじ込まれた市役所の人が、知恵を出したのだろう。
しかし、行政がしたことは、全住民の足を引っ張る最悪手である。他にやりようがあっただろうに。
相見(あいみ)お互い
だが、反省もした。
私は鈍い。人の思惑や感情をあまり顧慮しないところがある。謙虚になって、近所には頭を下げて、もっと遠慮して仕事をする方がよいのかもしれない。
しかし、自分の仕事はそれほど卑屈にならないといけないほど悪い仕事なのか?という自尊心も頭をよぎる。
もちろん、人に迷惑をかけてはいけないというのは人間として最優先の遵守事項だから、近所の人には決して迷惑をかけるなと職員には訓示するし、子どもたちにも折に触れては注意し続けている。しかし、人が集まれば、往来で多少のおしゃべりはするし、行き帰りの自転車が道に広がることもある。それを憎む人が、ではその人は絶対にそんなことはしないかと言えば、それはありえないだろう。
「相見お互い」。それが古来からの私たちの知恵であった。自分の子どもが小さいときは近所の人にうるさくしてごめんねと頭を下げる、子が大きくなって近所の子どもがうるさかったらうちもそうだったと優しく我慢してあげる、それが私たちの生き方であった。
そこで止めておかないと、保育所をつくると聞くと反対運動を起こし、老人施設ができると知ると抗議を始める、現在の嫌な趨勢、いずれは国民全体が大損を被る社会風潮が、ますます跳梁跋扈してしまう。
言霊(ことだま)
相模原市の障害者施設での十九人殺害事件、横浜市での点滴異物混入による死亡事件等、過去にはなかった、病院が舞台の陰惨な事件が最近頻発している。その背後には、施設や病院で働く職員のストレスの蓄積があるようだ。
また、近鉄電車東花園駅で人身事故による遅延に対して七・八人の乗客から詰め寄られていた車掌さんが、制服を脱ぎ捨てて高架から飛び降りた事件なども、責めて当然、攻撃するのが当たり前だという客の増上慢が引き起こしたものであろう。
それらに関して、ある病院の院長が新聞紙上で語っていた言葉が私の目を引いた。「患者を『患者様』と呼び始めてから、患者さんの態度が一変して、病院が凄惨な場所に変わってしまった。」
さもありなん、と私は何度も首肯した。
学校や塾が、保護者のことを、御父母様(なんと読むのだろう、「ごふぼさま」?)、と呼び始めたのはいつ頃からだろうか?私はいまだにこの言葉を使えないでいる。
誰しも、皆、立場は違っても、対等、平等だろう。なぜ、一方にだけ不自然な『様』をつける?
クレーマーの跋扈は、『様』の安易な濫用がその一因ではないだろうか。
「お客様は神様です」と謳った、三波春夫の罪は大きい。
(三波春夫様の御親族様、御ファン様、御レコード会社の御社員様、最後の弊駄文は御ジョークでございますので、心から伏して伏してお詫び申し上げます。)
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