塾という仕事に
向いた人、向かない人
どんな仕事でも、その仕事に向いた人と向かない人があるように思う。
私の場合、塾は天職であった。塾以外の仕事をしようという気は一度も起らなかったし、もししていたとしても全然続かなかったであろう。塾という仕事が世の中になかったなら、おそらくどこかで早々と野垂死(のたれじに)していたと思う。
ところで、新しく塾を開業する人には二手(ふたて)あるようだ。一つは、どこかの塾に勤めていて、なんらかの理由があって独立開業する人。もう一種類は、異業種からの参入組。
そのどちらも、当然のことだが、成功する人とうまくいかない人に別れる。成功と失敗を分けるものは何だろうか?
独立開業の場合
少子化と、大手塾の離合集散の影響か、10年ほど前までは、大手塾をやめて自分で塾を開業する人が間々(まま)あった。そうした人々は、「人気講師」ということから、在籍した塾の生徒を引き連れて、勤務していた教室に近接した場所で独立する人が多かった。
独立当初は市場を席捲するものの、今現在も繁栄を極めている塾は少ない。
特に、塾生の無理な引き抜きなど、元の所属先への不義理を重ねた上で独立した人ほど、成功例は少ないようだ。
また、長続きしない人の共通の性癖として、大手塾に在籍していたことを鼻にかけて周囲を睥睨(へいげい)している人が多かったように思う。
逆に、元の塾で教務面を実質一人で取り仕切っていたような、本当の力を持った人は、円満に独立して、元の塾以上に大きくなっている場合が多い。何々塾に誰々ありと、独立前からその名を顕(あらわ)していた人は、ほぼ例外なく成功を収めている。
成功した人はまた謙虚であって、大手塾にいたからといってまわりの塾を見下ろしたりなどはしない。
人間世界での勝負事は、つまるところ個人の能力の戦いであって、大手であろうが中小であろうが、個人の実力だけが勝敗を決することを熟知していた。
異業種からの参入の場合
予備校業界で、唯一元気がよさそうに見える東進衛星予備校。20年以上前、一気に全国展開したときは地域の個人塾を抱き込んで広がった。ところが今、個人塾で衛星予備校を併設しているところは少ない。大手塾の高校生部門であったり、異業種の資産家が一つの企業活動として経営したりされている場合が多いと聞く。
決算時、好業績を報道されるいくつかの個別指導フランチャイズ塾も、地方の若手企業家の多角経営形態のものが稼ぎ頭(がしら)だと言われている。
つまり、純然たる経済活動として、教育産業に徹する形での参入に成功例はあるが、いわゆる教育にこだわった、職人型の個人による異業種からの参入はほとんどなくなってきたということだ。
今や学習塾は、開業して1年以上、赤字でも維持できる余裕資金を持った人でないと参入できない業態であって、会社勤めをしていた人が、あるいは退職した教師が、「理想の教育」を求めて唐突に手を出せるような代物ではない。
向き不向きを
一瞬で判断する分かれ目
この稿の結論を先に言ってしまうと、民間教育、就中(なかんずく)学習塾は、お公家さんである公教育に対しての、野武士、今時の言葉でいうベンチャーであって、塾をするのに向いている人は起業家である、と私は思っている。
では起業家と、公務員や大企業の社員としての生き方を分かつものは何か?
それは・・・
「只(ただ)酒(ざけ)を美味(うま)いと思うかどうか」。これに尽きる。
二十七歳のとき、私は帰省した折、同郷から同じ大学に進んだ友人と偶々(たまたま)電車で遭遇した。その友人は、卒業時、絶対につぶれない企業ということで、当時日本最大の資本金を誇っていた鉄鋼メーカーに就職していた。
車中で久闊(きゅうかつ)を叙した後、彼が真顔で発した言葉を聞いて、私はひっくり返るほどの衝撃を受けた。
「最近、やっと接待で只(ただ)酒(ざけ)を飲めるようになって、その美味(うま)さがわかるようになってきたよ。」
その時は彼の真意を理解できずに呆れただけだったが、今では彼の「正しさ」がよくわかる。
塾、野武士である私は、「上等な酒を、自分で稼いだお金で存分に飲む」ことを人生の目標に仕事をしている。
日本一の大企業に就職した彼は、その会社で出世をして、下請け企業から接待を受ける身分になって、それを心から嬉しいと言っている。
両者は、ただ、文化が違うだけであって、どちらが良いとか悪いとかいう性質のものではない。
ただ私が言いたいのは、塾は、只(ただ)の酒は不味(まず)いと思う人間にしか向いていないということだけだ。
塾には、社会的な名誉も、誇れる栄誉も、何もない。
補助金・助成金、
ノーサンキュー
最近は、学校の先生や他業種の方から、塾という仕事それ自体を褒められることも多い。褒めてくださる皆さんがお世辞でおっしゃってくださるのが・・・
「通塾率も高まり、塾は子どもの学力向上に相当以上に貢献している。」あるいは、「公教育も塾を見直しており、佐賀県武雄市の例のように、塾の教育方法を公教育に取り入れようとする動きさえある。」
ここまではよいのだが、その後によく次の言葉が続く。
「だから国は、塾もある程度助成するべきだ。」
私はこれにはぶるぶると首を横に振って異議を唱える。
もし国から補助金や助成金をもらったら、その瞬間に、塾という業態も、個々の塾も、死ぬ。
かつて、職業訓練給付金制度なるものがあった。資格の学校に通う者に授業料の8割を国が補助してくれることになり、多くの資格の学校は受講生急増で濡れ手に粟のぼろ儲けをした。調子に乗って大学までつくったところもある。
ところがすぐに給付金は大幅カット。ウハウハで校舎を拡張し、職員を大量採用していた専門学校は、軒並み青息吐息。今では見る影もない。
「補助金、助成金は毒薬です。国から今まで、何の助けもいただかなかったことこそが塾の誇り。塾は徹頭徹尾、独立独歩で行くべきです。」が私の持論。
公(おおやけ)に助けを求めたい人は、塾には向かない。
(同様に、各地方自治体での放課後の学習支援活動等にホイホイと釣られる塾にも感心しない。)
起業家であって職人であれ
塾は起業家でないと向かないが、ただただ経済的利益だけを追求する企業体であることは許されない。
お預かりするのは社会の将来を託す子どもたちであって、子どもの学力を伸ばすと約束する企業であることその一事をもって、塾は社会から業としての存立を許されている。
だから、塾の人間はなによりもまず、子どもたちに確実に学力をつけることができる、プロの職人でなければならない。
一番多くの子どもたちの、一番学力を伸ばした塾人こそが塾の鑑(かがみ)であり、最も塾に向いた人である。 |