日本一の
お金持ちは平凡人
ソフトバンクの孫正義氏、彼の個人資産は約2兆円だそうだ。経済学者池田信夫氏がその孫氏について、「孫さんは何も特別なことをしているわけではない。彼ほど当たり前のことだけをし続けて儲けている人はいない。」と評しているのを見て、私はいたく感銘を受けた。
本当の天才とは、平凡なことを、非凡に継続し続ける人ではないかと、最近思っているからだ。
日本一の
バレーボール指導者
今年の全日本バレーボール高等学校選手権、全国大会女子の決勝戦は大阪の金蘭会と大阪国際滝井の戦いであった。私は共に地元の両校を平等に応援していたのだが、全国1位の栄冠は金蘭会高校のものとなった。
翌日の新聞で私が注目したのは、優勝校の監督さんのプロフィールである。指導者としてある府立高校を何度も全国大会に導いていた監督を金蘭会が2007年に招聘、すると最初は部員数人であったバレー部が、たった7年で全国1位に駆け昇ったのだ。
スポーツの世界では、ことほど左様に指導者の力量によって勢力図が大きく変わることがよくある。では、すぐれた指導者は何か格別のことをされているのかというと、皆さん、口をそろえておっしゃるのが、「私は特別なことは何もしていません、選手が頑張ってくれただけです。」だ。
ものがわかってくると、この言葉に嘘はないことが実感できるようになる。
秘策を求めて
家何軒分かのお金を失った
勉強の世界では、スポーツの世界ほど指導者の力量が評価されることはない。一部の有名予備校講師を除いて、誰が教えてもたいして差は出ないと思われている節(ふし)もある。
私も、そう思っていた。だから逆に、思うように塾生の成績が上がらないと、何か特別な教育機器なり、教材教具、あるいは教授法を見つけたら大成功できるのではないかと妄想して、お金を使って探し求め続けた。
パソコンが普及し始めの頃、計算力の弱い塾生のためにフロッピー1枚20万円の計算問題作成ソフトを購入したことがある。1週間もしないうちに壊れて使い物にならなかった。
キーなんとかというプリント作成機を教室にずらりと並べたこともあった。すぐに飽きて、ガレージ1区画を借りて収納して放置、処分するのに難儀した。
美しい教材が成績を上げるとおだてられて、高級ワードプロセッサーを自動車1台分の代価で購入したこともある。試験の点数は1点も上がらなかった。
自立学習が持て囃された時代には、教えない指導を実践して、そのおかげでよくできる生徒ばかりが呆(あき)れて次々塾を去って行き、大(おお)慌(あわ)てしたこともある。
すべて結果が出ないまま、機器類は倉庫にしまいこまれ、結局、成績を上げることに成功したものは1つもなかった。
孫さんの逆で、一発大逆転を目論(もくろ)んで非凡なものばかりを追い求めて、時間とお金を空費しただけだった。
学習指導の要諦は
平凡のうちにあり
正直に白状すると、以前は不合格者も今よりは多かった。なんとか合格率を上げようと奇策に走り、かえって傷を深くすることも皆無ではなかった。
最近は、合格率は相当高い。当地では1週間前に中学入試が終わったところだが、今年も受験生は全員が第一志望校に合格した。
うちの自慢は、受験生全員が、直前の模擬テストでE判定、F判定であった学校を受験し、合格してくることだ。偏差値で5から10ポイント不足している中学校に全員が合格する。
試験直前に相応の対策はするが、格別誇れるようなものは何もしていない。受験する学校の過去問と、その学校の入試問題の出題傾向とレベルに合わせた予想問題、練習問題を、毎日愚直に解き続けるだけだ。私の仕事は、受験校別に問題を準備することと、その日にする事柄を指示することだけで、声を張り上げて教えるようなことは一切ない。
入試に合格する唯一の方策は、当たり前すぎて言うのも憚(はばか)られるが、合格点をこえる点数をとることだけだ。その平凡な一点だけに集約して努力を傾注しておけば、当然、不合格になることはない。
自分を恥じるのは、そんな当たり前のことを気づくのに、私は何十年もかかったことだ。すぐれた指導者とは、若い時から、あるいは生来、当たり前のことを非凡に継続してきた人のことだ。
普段の成績向上策も
平凡のうちにあり
塾での私の担当教科はおもに数学と理科だが、普段の学校の成績向上にも、特別の秘策、秘訣のようなものはない。
数学でいうと、以前は中1の一次方程式の利用、中2の一次関数が悩みの種だった。どのように教えようと、子どもたちの理解が不十分で、当然、テストの点数も悪く、忸怩(じくじ)たる思いに苛(さいな)まれたものだ。
ところが最近、この2つは私の最も得意な分野になっている。塾生の成績も、この2分野はすこぶる良い。しかし、特別な秘策を発見したわけではない。
逆である。少し早目から、時間をかけて原理を解き、子どもたちの身に付くまでしつこく反復させるようになっただけだ。奇策を捨て、平凡に徹することで、道が拓(ひら)けてきたわけだ。
ことは教科の
各分野に限らない
さらに言うと、例えば、数学が良くできる子と、そうでない子のどこが違うかというと、その差は驚くほど小さい。
『問題文中の数値を鉛筆で囲む、自分でグラフに数値を書き込む、図がなければ図を描いてから解く、解く前に求めるものをxと決めて記入する、必ず式を書いてから解きはじめる、途中式を省略しない。』
たったこれだけの、当たり前のことができさえすれば数学が良くできる子になり、たったこれだけのことができないから、数学が苦手な子はずっとできないままなのだ。
さらに、最近気づいたのだが、計算間違いの多い子は鉛筆の持ち方がおかしい、鉛筆の持ち方がおかしい子は左手をノートに添えていない、左手をノートに添えていない子は机の上すら片付けができない。
つまり、勉強ができるかどうかは、つまるところ正しい姿勢で正しい鉛筆の持ち方ができるかどうかという、非常に平凡なことに収斂(しゅうれん)してしまう。
幸せに生きる要諦(ようてい)も
平凡のうちにある
歳を経(へ)ると痛感するのだが、人生を幸せに生きられるかどうかも、その要諦は平凡なことを継続できるかどうかに懸(かか)っているように思われる。
例えば、毎日出会う近所の人に、にこやかに挨拶できるかどうか、たったそれだけのことで、人間の幸不幸は決まってしまう。
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