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2006/1 塾ジャーナルより一部抜粋

塾と学校、立場を逆転させた発想も必要

瀬島 順一郎
大阪産業大学学長。
早稲田大学教育学部卒業、慶応義塾大学大学院社会学研究科心理学専攻修士課程卒業、専門分野 行動分析学、著書「人間行動の心理」福村出版。

趣味:マジック。国際奇術連合(FISM)大会日本代表審査委員。
Society of Japanese Magicians 会長。中部奇術連合会会長。

モットー:学生中心の大阪産業大学にしたい。

 

遊べない学生たち

平成17年11月6日(日)は大学祭の最終日であった。その日に大阪産業大学開学40周年記念式典も開催した。来賓・学生・教職員・校友会といった皆様と一緒に40周年を祝いたいと考えたからであった。もとより学生を中心とした大学つくりを目指してきた私の方針だったからである。来賓の皆様はなんと騒がしい式典だと思われたかもしれません。その夜、6時30分から8時まで打ち上げの後夜祭があり、ダンスパーティーとレーザーショーで華々しく終焉を迎えようという大学祭実行委員の企画であったらしい。これに私も参加した。特にダンスパーティーでは歳を忘れて踊った。学生の中で踊っているともう圧死しそうであったのでステージで踊った。その時に踊っている200名近い学生を見て驚いた。

なんと彼らは、ただ飛び跳ねて手を挙げているだけなのである。つまりただ音楽に合わせて飛んでいるだけで、とてもダンスなぞといえるものではなかった。若いエネルギーは確かに感じる。しかし、なんと没個性であり、集団に埋没した騒ぎなのかと思った。学生時代、六本木のディスコで靴下が擦り切れるほど踊り狂ったことがある。当時全盛のディスコである。踊り疲れた頃はすでに空が白んでいたのを思い出した。その頃の踊りにはある程度ステップもあり、みんな個性的にそれを演出していたし、「Be My Baby」などが流れるとみんな手を組んで同じステップを踏んだものだった。今もラップにのせてブレークダンスのように個性的に踊る学生たちもいるが、ほんの一握りである。ほとんどの学生はただ飛び上がるだけである。

それを見た私の感慨は「彼らは遊んでいないし、トレンドをリードできるわけでもないのか?」というものであった。もう学力不足には驚きはしない。不足しているのなら大学で補えばいいと思う。しかし、今の学生が遊んでこなかったということは、遊び方も知らないということなのだ。小学生を校庭に集め、これから何でもいいからみんなで遊んでみなさいと言うと、彼らは何もできないという。まさに遊ぶ知恵を持っていないのである。ただ飛び跳ねるだけの学生たちを見て、ふと校庭にたむろするだけの小学生の姿が重なってしまった。このごろ大学生は自分たちのことを生徒と呼ぶ。

幼児期からの教育の見直し

幼児教育の重要性を唱え、幼稚園(Kindergarten)を最初に創設したのはフレーベルである。1837年のことである。彼は幼児の創造活動や自己表現の自発性を尊重し、自由遊びの形式を主体とした幼稚園教育の原理を作り出した。これは今日に至るまで幼稚園教育の根幹をなしている。日本の学校教育法では幼稚園教育の目標として、

  1. 健康を中心とする基本的習慣の養成
  2. 集団生活による社会的行動の助長
  3. 身辺の社会生活および自然に対する理解と態度の養成
  4. 言語を中心とする幼児文化に対する興味の促進
  5. 創作表現活動を中心とする芸能的な遊びの指導 

(平凡社 心理学事典より)

園によっては現在もかなり忠実にフレーベルの教育原理を実践しているところもある。すばらしい遊戯大会を年一度開催し、親を感動させることもある。上記の目標が達成され、さらに小学校・中学校・高等学校と進むことによって子どもたちが発達するならば、コンパをしない大学生、友人ができない大学生、クラブ活動をしない大学生はそんなに多く現れないのではないだろうか。

最も、幼稚園・小学校もかなり様変わりしているようである。親が若いせいもあるのだろうが参観日にきた親のおしゃべりがうるさくて授業にならないという先生の不満も聞く。健康は食にあると言われるが、子どもたちの食生活はどうなっているのだろうか。とくに保育園ではかなりひどい現状であると嘆く人もいる。その人は自ら栄養バランスのよい食品をドライフーズにして子どもたちに食べてもらうのだ、といってドライフーズの会社を起業することに熱意を燃やしている。

知育とは何か

知育・徳育・体育という考え方がある。さらに近年は知育偏重と言われてきた。知というものは歴史や人間の経験から抽象された知識なのであり、知識があることがそのまま生活を豊かにするわけではない。まさに徳育・体育と一緒になって知育が生きてくるのである。私たちの身体は自分の思うとおりに動いていると思うのは錯覚である。身体はそれなりの訓練をつむことによって、意志通りに動いていると思っているだけである。神経の疎通がそのように思わせるだけである。運動選手は何度も繰り返し訓練することによって、一つの運動パターンを作り出すのである。思い通りとか意志通りにわれわれの身体が動いているわけではない。神経系統の疎通によって、そのように思うようになっただけである。知育偏重というと聞こえがいいが試験に合格するための勉強はとても知育とは言えない。受験勉強は知育ではなく一種の訓練なのである。受験に向けての訓練は確かに必要であろう。塾がそれに向けて特化することの必要性は背景にいわば公教育があるからである。知育は身体性・社会性・関係性の上に成り立つものであり、訓練は公教育という知育の背景に成り立ってくるのである。これまで塾の存在価値はそのような基盤の上に発達してきたのである。

こうなるとどこか大学教育と似た立場のようである。大学は高校までの教育を前提として成り立ってきたからである。ただ塾とちがって大学では受験のための訓練に対しては頑として拒んできた歴史がある。今、大学では遊びの訓練や社会性の訓練を取り入れて大学教育の一環としなければならなくなってきている。キャリア指導やマナー講座・文章表現などが大学の正規のカリキュラムの中に見られるようになってきた。

遊び塾の必要性

公教育が機能しなくなったのならば塾がこれに取って代わればいいのである。もうすでにそれに近くなっていると思うのである。小・中学生はクラス仲間と集うより、塾仲間と行動をともにする。

話は変わるが学童保育というシステムがある。筆者は、このシステムは大変重要なものであると考えている。学校教育を補填してあまりあるシステムである。近年この運動がどのようになっているのか筆者は詳しくはないが、すくなくとも10数年前は大変すばらしい機能を持っていたといえる。これは筆者の経験によるものであるから自信を持って言える。遊び・伝統・仲間・指導者・宿題・先輩後輩・自由といった、教育にとって最重要な要素がいっぱい詰まっていたのである。1年生から6年生までの児童が一緒に遊び学んでいるのが学童保育なのである。低学年の子どもの宿題を高学年の子どもが見ている。おやつを食べて眠たくなった子が昼寝をしている。コマ回しをしている子もいれば、お手玉をしている子もいる。けんかもあり、いじめもあるが長幼の序も存在している。指導者と呼ばれる先生も一緒に子どもたちと遊んでいる。時に芋ほりもするし、畑を見に行く。まるでペスタロッチ教育の再来のようであった。筆者はこの学童保育のあり方は塾教育の一つのモデルになりうるのではないかと考えている。小学校から高等学校に至るまでの生徒を遊びから勉学までを経験させる塾が、いま求められているのではないだろうか。 

もちろん塾はこれまで小・中・高一貫教育であった。しかし内容はやはり進学中心にターゲットが絞られてきていたはずである。小学校の校庭で先生が子どもと一緒になって遊ぶ姿が見られなくなって久しい。ある校長先生は先生が忙しすぎるんです、と言う。曰く研修や学校運営に忙殺され子どもたちと遊ぶ時間がないらしい。しかし、子どもと触れ合う時間をなくして研修も運営もない。学校が本来の機能を失ったとすれば学童保育のように塾はそれを補填すればいいのである。ただし塾の経営者は日本の教育の現状と教育の本質をしっかり見極めなくてはならない。おそらく私立学校の創立者が公教育に対してある種の憤りをもって建学の精神をもとに創立した経緯とよく似たものであるべきであろう。もはや硬直した公教育に日本をまかせることはできないという教育信念を持たなければならない。リーダーであるべき大人が日本の教育と日本の未来をしっかりと見つめ行動しなければ、子どもたちに何を期待できようか。

人間育て塾

もはや塾はお受験塾ではない、という認識こそ大切である。これまで塾は学校制度というインサイダーに対してアウトサイダーとして闘いを挑んできた。しかしもはやその境界は崩れ去り、塾も単に訓練と進学率という目的から教育の本質を問う教育機関として出発することを余儀なくされているのではなかろうか。かつて私学の創立者がそうであったように。

塾と学校が共存共栄するという生易しい事態ではないと筆者は思う。立場を逆転させた発想も必要である。高校の進路の先生方を対象に入試説明会を開催すると質問も挨拶も実に淡白である。しかし塾の先生対象では熱気がちがうのである。生徒を思う気持ちははるかに塾の先生方のほうが強いと思わざるを得ない現象がある。高校より塾に愛着を感じている学生も相当数いる。

この塾に入るためにはこの学校がいいと言われるような塾でなければならないのではないかと思う。座席数の少ない美味しいレストランのように客を行列させればいいのである。そこに多くの顧客がいるからといって店舗を広げた店は大抵失敗している。手作りの店とはそういうものである。現在、手作りの教育ができる唯一のものが塾なのではなかろうか。お受験では生徒が集まらない時代である。人間つくりを目指す塾こそは新しいトレンドなのである。

 
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