京大は客観主義に距離を置く伝統を守ってほしい
ぼくは旧制の時代だが、その頃はもっとおおらかだった。1948年の東大経済学部の
問題(その頃は、今の大学院入試のように学部学科ごとにやっていた)が「1848年について」だったし、新制になってからでも、京大の1951年の社会の問題にその頃の左翼の論争点の「コミンフォルム批判について」があった。今で言うなら、小論文のテーマが「君が代について」のようなもの。このテーマで野間宏と三島由紀夫が答案を書いたら、おそらく正反対の方向だろうが、どちらも合格させるだけの目が採点者に要求される。主観主義というのも厳しいものです。
ぼくのよく知っているのは、京大入試の数学だが、数十人の数学者を1週間も動員できる大学はそんなにないから一般的とは言えまい。でも、1題が30分で30点を目安に考えたい。2時間半で6題の200点満点とは矛盾するようだが、満点なんてだれも期待していない。
この10年は知らないし、ぼくが京大へ来る前もそんなに知らないが、有名人で言うなら河合雅雄とか山崎正和とか、ぼくの同世代の人間が、「正解でないのに成績がよかった」と言うのを直接聞いたから、客観主義に距離をおく伝統なのだろう。ぼくとしては、こうした文化を守ってほしい。
競争者間の客観性から、1学部の1問題を一人が採点するのだが、転学部の問題もあるので、1日ぐらいかけて同じ問題の採点者間で議論をする。30点のうち、ここがあれば10点とか、この欠陥はマイナス5とか。「出題者の意向」は完全に無視。現物の答案が材料なのだから。説明不足の答案に、「要求されて説明できそうならマイナス5でなくマイナス2」となったこともある。これはもちろん、該当答案をもとにした議論で一致できたから。
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