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2003/09 塾ジャーナルより一部抜粋

(悠々教育論 1) 「テストの過去型と未来型」 

森 毅 (もり つよし)
京都の三高(現在の京都大学総合人間学部)から、東京大学理学部数学科を卒業。北海道大学理学部助手、京都大学教育部助教授を経て教授。1991年に定年退官。京都大学名誉教授。以後、フリーの評論家として、テレビ、ラジオや雑誌、新聞などで、文化・社会一般について批評活動。
著書約100冊:「ぼけとはモダニズムのこっちゃ」(青土社)・「自由を生きる」(東京新聞社)・「東大が倒産する日」(旺文社)・「社交主義でいこか」(青土社)・「ええかげん社交術」(角川書店)・「21世紀の歩き方」(青土社)などがある。
 

大学入試は未来型

 テストには、過去型と未来型があると思う。それまでにどれだけやったかを点検するのが過去型、これからどのようになりそうかを予測するのが未来型。ぼくの経験からしても、教師というものには自分が教室でやったことの効果を確かめたがる属性があるので、学校のテストは過去型になりやすい。それに対して、入学試験や入社試験になると、入学後や入社後に期待するので、本質的に未来型になる。もっとも、未来の予測というのは難しいので、いくらかは過去に頼る。入試といっても、高校入試あたりまでは過去型が強く(だから学校成績の内申書がある)、大学入試になると未来型が多い。ぼくは30年以上も京大で入試に関係したが、京大は完全に未来型。高校の先生と話すとき、立場の違いがよく見えた。高校の先生は高校でいい生徒だったから大学へ入れてあげたいと思うし、大学の先生は高校時代はどうでもいい、大学でうまく付き合ってくれればよい。今はなくなったが、昔は「高校で勉強したことは忘れてやり直してください」などと極端なことを言う教授もいた。大学院入試はどこも未来型。

 もちろん、未来型は不確定な部分が多いし、入試の要求する客観性には過去型が合っているという矛盾もある。未来の予測のために、過去の実績が頼りにもなる。しかし大学だと、学部、大学院、助手などと、10年以上も学生を観察する機会がある。3年程度なら過去から未来を予測できるが、10年にもなると過去の実績の未来への効果は、半分以下だと思う。大学院入試が未来型になりやすいのはそのゆえだろう。

過去よりは未来に賭けたい

 それなら受験の時点での能力が有効かというと、これもあてにならぬ、10年もすれば、人間はよくも悪くも化けることがある。才能開発などというが、才能なるものが固定して持続すると錯覚しているのではないか。ぼくの経験では、こちらも半分以下の効率ではないか。それでも、その時点での最善を尽くさねばならぬのが入試のつらいところ。でも、当てにならぬからこそ、過去よりは未来に賭けたいというのが、教師の心意気。

 また生徒の立場からすれば、当面の学校の成績や受験の合格が目標になりやすいが、それに固まりすぎては、先が暗い。差し当たりの過去型にほどほどに付き合いながら、長期的には未来型を心得ているぐらいか。中学あたりだと解き方を教わった問題を解くことが多いが、大学に入ると教わっていない問題が増えていく。長い人生ではもちろん。受験というのは、いくらかそれに対応している。京大の場合は、モルモットの数学教授に解かしてみて、教授に最初から解き方のわかる問題はボツにするという建前。

 もちろん、人はそれぞれだから、過去型の向く人と未来型が向く人がいる。ぼくは未来型だったので、学校の成績はそんなによくなくて、級長などになったことがないし、優等賞にも縁がなかったが、入試などのテストを落としたことは一度もない。

学校の成績と入試の成績

 単純化して考えると、学校の成績を上げるためだけなら、テキストにある単語は記憶する必要があるが、テキストにない単語はいらない。教科書の問題は解けないと困るが、教科書にない問題はどうでもよい。ところが、入試になると、教科書もテキストもない。一応指導要領の拘束があったりはするが、緩和の方向になるだろうから、学校の成績は過去型、入試の成績は未来型と区別したほうがよい。学校のテストだって、テキストや教科書にないところを出したりもするが、それが主流でないのは、教師の属性が過去型志向だから。

 未来の社会については、学歴より能力重視や雇用の流動化はもっと強まろうから、未来型をもっと考えたほうがよい。にもかかわらず、社会そのものが過去型に向かっているようにも見えるのは、未来への不安から過去に頼りたがっているのだろう。ぼくが学生時代に家庭教師をしていた子の進学校では、3年になると試験範囲がなくなって学校のテストが模擬試験のようになっていたのに、今では問題集で範囲が指示されたりする。30年ぐらい前には高校入試でも、先生が疑問答案には議論して採点していたが、このごろでは教育委員会が統一基準で統制している。過去型への基準化が進行しているように見える(センター試験もこの矛盾を抱えている)が、時代の流れとしては絶対と思えない。差し当たり、二重基準で行くよりあるまい。

本来の「ゆとり」とは

 ぼく自身の受験生時代は、受験勉強はしたが、学校の試験のための勉強はしなかった。テストの前の勉強なんかしたら、テストを自分に利用できぬ、それは一種のカンニングと言っていた。テストは、自分のまちがいの癖に気づいたり、これからの勉強の指針をたてるため。それでも、制度の関係で、内申が気になる事態にだけ、それなりに対応した。ふだん薬を飲まぬと病気の時に効くようなもので、それなりに効果があった。しかし、テストの前の勉強で何かが身についた記憶はない。それより、テストでうまくいかなかったことを、後で考えたりしたのは身についている。テストの前の勉強よりは、テストの後の勉強が大事。ただし、これは原理的にすぎるから、内申で必要なときは、成績も上げねばならぬ。必要悪としての成績。

 こんなええかげんではだめと思われかねぬが、京大の学生に取材した限りでは、成績に距離感を持って、いくらかええかげんな学生のほうが、うまく受験をこなしていたように思う。ぼくの学生時代などに家庭教師のアルバイトをしていた戦果が、ほぼ全勝に近かったのも同じ。真剣に受験勉強という努力信仰のイデオロギーが過剰じゃないか。勉強しながらも成績に距離感を持つというのが、本来の<ゆとり>というもの。そして、ゆとりが大事というのはそのほうが受験に合格しやすいから。精神主義では合格できない。

 それは牧歌的な昔話で、今は受験戦争の時代などとは言わせない。ぼくの若いころは、本物の戦争があって、それでも受験があって、どこかの学校にもぐり込まぬと、嫌な戦争に連れて行かれたのだ。だからこそ、ゆとりが必要だったし、それでうまく過した。もっとも運がよかっただけ、という気分もあるが、そう思うのもゆとりのうち。

 
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