本来の「ゆとり」とは
ぼく自身の受験生時代は、受験勉強はしたが、学校の試験のための勉強はしなかった。テストの前の勉強なんかしたら、テストを自分に利用できぬ、それは一種のカンニングと言っていた。テストは、自分のまちがいの癖に気づいたり、これからの勉強の指針をたてるため。それでも、制度の関係で、内申が気になる事態にだけ、それなりに対応した。ふだん薬を飲まぬと病気の時に効くようなもので、それなりに効果があった。しかし、テストの前の勉強で何かが身についた記憶はない。それより、テストでうまくいかなかったことを、後で考えたりしたのは身についている。テストの前の勉強よりは、テストの後の勉強が大事。ただし、これは原理的にすぎるから、内申で必要なときは、成績も上げねばならぬ。必要悪としての成績。
こんなええかげんではだめと思われかねぬが、京大の学生に取材した限りでは、成績に距離感を持って、いくらかええかげんな学生のほうが、うまく受験をこなしていたように思う。ぼくの学生時代などに家庭教師のアルバイトをしていた戦果が、ほぼ全勝に近かったのも同じ。真剣に受験勉強という努力信仰のイデオロギーが過剰じゃないか。勉強しながらも成績に距離感を持つというのが、本来の<ゆとり>というもの。そして、ゆとりが大事というのはそのほうが受験に合格しやすいから。精神主義では合格できない。
それは牧歌的な昔話で、今は受験戦争の時代などとは言わせない。ぼくの若いころは、本物の戦争があって、それでも受験があって、どこかの学校にもぐり込まぬと、嫌な戦争に連れて行かれたのだ。だからこそ、ゆとりが必要だったし、それでうまく過した。もっとも運がよかっただけ、という気分もあるが、そう思うのもゆとりのうち。
|